どうして海外留学をすることを決意したのか?

僕自身が海外留学をすることを若い時から想像していたと思いますか?

答えは「NO」です。

学生のころは英語が苦手で、大学センター試験ではいつも英語が足を引っ張っていた僕が、海外留学をするなんて、学生のときはまったく考えていませんでした。

 

では、いつ頃から海外留学を意識するようになったか。

それは初期研修を終えた3年目くらいからですかね。

 

僕は研修医のころから、上級医の先生方から、常に経験した症例を深く掘り下げて考えること、そして学会発表すべき症例に出くわしたときには、最終的には論文にすべし!ということを教わってきました。

 

現在のローテート研修では、僕たちの頃のようにある領域を掘り下げて考えるということはなかなかできないと思います。ただし、広い分野を経験できるというメリットはありますが。

 

素晴らしい上級医のもとで、研修をさせてもらい、おかげで多くの発表と論文作成を研修医の頃からさせてもらいました(興味のある方は研究業績を参照してみてください)。もちろん、その当時は日本語の論文だったのですが、それでも論文を書くという作業を通じて、アカデミックな感覚が身につくようになり、自分の経験した特異なケースを世に出して皆さんと共有しなければ、という気持ちになるようになりました。

 

 

研修3年目に過ごした島根県邑智郡岩見町の邑智病院

 

スキー場が近くにあり、冬は雪がたくさん降りました。

写真では当時の僕の愛車RX-7が雪に埋もれています。

 

邑智病院は山間地でこの辺一帯での唯一の救急病院で、すごく忙しい毎日でしたが、非常に充実した毎日を過ごすことができました。

 

3年目は医局関係の上級医は病院にはおらず、一般医として胃カメラや腹部エコーなどをしていましたので、学会発表などのアカデミックなことを指導してくれる人はいませんでした。

 

でも、邑智病院に勤務していた時は患者さんも多く、かなり忙しかったのですが、学会発表を行い、論文作成を2つほどしました。 当時の邑智病院は学会発表に行くといって休暇届けを出したら、出張費を出してもらえました。 当時は邑智病院の勤務医が自前の症例を進んで学会発表するということは珍しかったんだと思います。

 

 

そう、僕はこの頃から自分がした仕事、発見したこと、自分の考えを世に出すことが楽しいと思えるようになりました。

慣れない英語の論文を少しずつ読むようになり、そうすると、やはりいつかは世界に通じる仕事がしてみたい、という気持ちが芽生えてきました。

 

これが、最初に海外を意識したときでしょうか。

島根県の山奥にある小さな野戦病院で感じたことが、始まりだったと思います。

 

加藤譲教授の退官、杉本利嗣新教授との出会い、大学院進学

市中病院での研修を終え、4年目になった時には大学へ戻りました。

僕が入局を決めた時から、決まっていたことではありましたが、その頃には教授であった加藤譲先生が退官されるというタイミングでした。

 

加藤先生は下垂体ホルモンがご専門でしたが、糖尿病も含めて幅広く患者さんを見ておられ、患者さんの病態を論理的に考えて薬剤を処方するということを教えていただき、僕の診療スタイルの基礎を教えていただきました。

 

また、これも決めていたことなんですが、新しい教授が就任されたら、その教授のもとで大学院に入り、研究をしようと思っていました。

僕自身は、糖尿病と動脈硬化について興味があり、どんな教授がこられるのだろう、できればその分野の仕事がしてみたいとドキドキしていました。

 

新しく着任された杉本先生のご専門はカルシウム骨代謝、今までで一番縁の遠かった分野で、すごく戸惑いました。

 

その頃、うちの医局には僕の同期が2人いて、同時に研究をスタートさせたわけですが、杉本先生から与えられたテーマは3つ。

①糖尿病と骨

②脂質と骨

③ステロイドと骨

 

僕はその頃、脂肪細胞から分泌されるホルモンが糖代謝、動脈硬化に深くかかわっていることが話題となっていたので、迷わず②の脂質と骨の研究テーマを選びました。

このテーマが現在まで続いているのですが、今でも非常に興味深く、楽しんでやっている仕事になっています。

グラバー像と。左から僕、矢野先生、山根先生、小川先生。
グラバー像と。左から僕、矢野先生、山根先生、小川先生。

 

 

この頃、長崎であった西部腎臓学会に参加して、医局の人たちと行ったグラバー園。

 

僕は一番左で長男を抱っこしています。

 

この時はちょうど夏休みをもらっていて、家族での長崎旅行も兼ねて行ってきました。

 

天気も良くて楽しかったですね。

初めての海外学会、オーストラリアで口頭発表

オーストラリア、ポートダグラスの学会会場での休憩(林先生と)
オーストラリア、ポートダグラスの学会会場での休憩(林先生と)

2005年から大学院に入り、研究を開始しました。

 

“アディポネクチンの骨芽細胞への作用”についての研究。

アディポネクチンは当時、善玉のアディポカインとして注目されており、糖代謝と動脈硬化を改善する作用があると報告されており、注目のホルモンでした。

 

当然、最初はいろいろと実験をやってみましたがうまくいかず、siRNAを使用してアディポネクチンの受容体の発現を抑制するという実験系でようやく結果が出始めて、2006年に骨代謝学会にて発表を行いました。

これが、どういうわけかTravel Awardを頂くこととなり、オーストラリアの学会で口頭発表を行うこととなりました。

 

当初、いつか海外の学会で発表できたらいいなあと漠然と思っていたことが、いきなりかなうことになり、英語もほとんどしゃべれない上に準備もそこそこで発表を行いました。

 

これが仕事で海外に行った初めてのエピソードです。

写真は同期の山本(旧姓林)先生と学会会場のホテルでコーヒーを飲んだときの写真です。

 

何事もやってみるもんですね、英語もへたくそでしたが、なんとか口頭発表&質疑応答を終え、海外留学への意識も高まるようになった出来事でした。

 

なぜ海外留学が必要だと思ったのか?

臨床医にとって海外留学が必ずしも吉と出るかどうかはわかりません。

むしろ、臨床をメインで人生を送るのならば海外に基礎研究で留学することは時間とお金のロスにもなりますし、それだけ臨床経験をロスするということになります。

 

今でもそうですが、はたして研究活動を今後も続けていくのだろうか?という自問がいつもあります。

研究活動を行っていくことが自分の人生にとってのメリットになるのか?デメリットになるのか?

 

いろいろと考えましたが、やはり今しかできないことをやって人間としても、医師としても幅広い経験を持つことはプラスになるはずだ、人生一度きりなので一度は海外の研究者というやつを見てやろう、英会話ができるようになることはメリットがあるはずだ、人がまねのできないような経験をつんでやろう、家族にとってもメリットがあるはずだ、自分がどこまでできるのか世界に挑戦してやろう、留学後に新たな技術をお土産に国内でも何かしでかしてやろう、

 

そう決心したのが2007年ころのことだと思います。

基本、体育会系な体質で、どの分野でも一番になってやるという生意気な意識もあり(今でもありますが)、留学したいという旨を杉本教授に話しました。

 

杉本先生からは基本OKでしたが、まずは「あいつが留学するのは当然だ」と医局内でも思われるように、他の医師から認められるような業績を作るようにといわれました。

 

地方の医局内で一番いなれないやつが留学してもしょうがないな、という気持ちになり、さらに研究活動を加速することになりました。

 

骨粗鬆症学会での学術奨励賞

その後、幸運なことに始めて行った臨床研究が骨粗鬆症学会の学術奨励賞に選択され、論文もInternational Osteoporosisという雑誌にacceptされ、なんとなく研究と論文を書くということが分かるようになりました。

 

英語で研究論文を書くという作業は想像以上に大変でした。しかし、それでもこれまでに症例報告を含めて論文を書いてきた経験があったので、比較的はやく(同級生たちに比べて)書き上げて上司の先生に校閲をいただけるようにはなっていたと思います。

准教授の山口徹先生のおかげもあり、留学までの間に十数個の論文を書き上げました。

 

大学院の間は、ひたすら研究をするということ、そしてそれをちゃんと論文化するということに従事し、そういった作業に慣れると同時に、自分で仮説を立てて研究の方法を考えるということができるようになってきました。

 

今でも思うことですが、研究をすることで一番大切なことは論文を書くということではなく、自分で論理的な仮説をたてて、それに向けてどのようにして研究をするか、そしてディスカッションできるかという能力を高めることだと思っています。

 

こういった過程は、臨床的な能力を育ててくれるだけでなく、人生も豊にしてくれると思っています。

 

留学先訪問

研究をするということ、論文を書くということがなんとかできるようになって、いよいよ杉本教授に留学に行きたいと再度お願いしたのが2008年始め頃だったでしょうか。

 

「留学先でどこか行きたいところがあるか?」の問いに、

「そうか!行き先を決めないと! でもどうすれば・・・」とハッと目が覚めました。

 

といってもどこにどんな大学があるのか、今でこそなんとなく分かるようにはなってきていますが、その頃はまったく世界の大学や研究所の名前、事情などは全く知らず、結局杉本教授のもとの教室にいて、現在は近畿大学再生機能医学講座教授の梶博史先生のつてで、カナダのモントリオールにあるマギル大学カルシウム研究室のGeoffrey N. Hendy教授を紹介していただきました。

 

梶先生もマギル大学に留学経験があり、Prof. Hendyとともに約2年半研究をしていたそうで、ProNASなどのかなりいい雑誌に研究を報告しておられ、現在もポスドクはwellcomeであるということでした。

 

平成20年(2008年)の秋、始めて留学先であるモントリオールにASBMRの学会参加のために来ました。2008年のASBMRの開催年がなんと偶然にも留学先のモントリオールということに運命的なものを感じました。

 

このときに、始めてDr. Hendyとお会いして、ラボの内部などの見学をさせていただきました。

正直、もう少し色んな最先端の研究機器があるのかと思っていましたが、建物も古く、ラボの中にはたくさんの古い機械があり、逆にびっくりしました。

留学というものに幻想をいだいていた僕は、ようやく留学するということを現実的にとらえるようになった瞬間でもありました。そう、それまでは実は、留学するということを夢とでも思っていたように思います。

 

留学先の教授にも直接お会いし、緊張と拙い英語のためにほとんど何も話ができないながらも、固く握手をした記憶は鮮明に残っています。

 

同時にこのときに、モントリオールアカデミー会の幹事をされていた武田直也先生とお会いして、いろんなモントリオールでの生活事情の情報についてもいただき、かなりモントリオール市内も歩いて探索しました。

 

カナダ留学に向けて

臨床医が研究留学をするということ、正解であるのか、はたまたただの遠回りであるのか。。。

 

英会話能力がないのに大丈夫なのか。。。

 

当時は長男がまだ5歳、一番下の子がまだ1歳、合計5人の子供を連れての海外生活、本当に大丈夫なのか。。。

家族を巻き込んでいいんだろうか。。。

 

貯金はある程度したものの、現地での契約金はわずかであり、生活していけるのか。。。

 

正直、不安はつきませんでした。

 

ただ、なんとなくいけるんじゃないか?少なくともいい経験にはなるだろう。

いや、なんか大きな仕事を成し遂げてやる!

という変な自信をもっていたのは、僕が若かったからかも知れませんね。

あるいは家族の支えがあったからでしょうか。

 

海外にでることに不安のない人はいないでしょう。

もちろん、留学前には不安をなるべく少なくするように情報収集など、たくさん努力はしました。

それでも不安がなくなることなんてあり得ません。

 

自分で何も行動しない人に、本当の幸せな人生があるでしょうか?

それは分かりません。

しかし、新しい環境にでるときには勇気と思い切りが必要であることは言うまでもないと思います。

時には思い切って新たな環境に飛び込むことも、長い人生の中で必要なことなんじゃないでしょうか?

もし仮に失敗だったとして、その期間は取り戻せないものでしょうか?

 

自問自答はつきませんが、海外留学を志し、大学院での研究生活を過ごしてきた4年間は非常に充実したものでした。

 

さらなるstep upを目指して、僕は前に進むことにしました。

僕にとっては良い選択だったと信じています。

 

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